後藤田正晴氏死去

徳島新聞記事から。

「徳島の誇り」 後藤田正晴氏死去、県民から別れ惜しむ声

 後藤田正晴さんの死去が伝えられた21日、徳島県内各地で、郷土が生んだ偉大な政治家の功績をしのび、別れを惜しむ声が広がった。

 官房長官、副総理と政権の中枢を担った実績に対し「後藤田さんは故三木武夫元首相とともに徳島を全国に知らしめた政治家」と言うのは電器店経営新居孝志さん(63)=阿波市丸山。小石尚眞(なおみ)さん(65)=牟岐町牟岐浦、無職=も「徳島に何かあっても、後藤田さんがいれば大丈夫という安心感があった。徳島を支える大きな柱がなくなったようで寂しい」と話した。

 若いころを過ごした阿南市は、後藤田さんゆかりの地の一つ。兄が旧制富岡中学(現富岡西高校)の同級生だった横手茂さん(77)=同市畭町新はり、福村漁協組合長=は「(後藤田)先生から父や兄の話を聞かされたことがあった。素晴らしい先生の選挙活動に携わったことが私の誇り」と懐かしむ。

 直接話したことがある数藤公子さん(74)=徳島市津田本町二、主婦=は「警察庁出身の骨のある人だった。一方で阿波弁丸出しで親しみやすかった」と、人柄が忘れられない様子だった。

 徳島新聞に随時掲載していた後藤田さんの「直言評言」をいつも楽しみにしていたという片山興自さん(70)=日和佐町北河内、団体役員=は「引退後も鋭い視点は変わらなかった。若手の指導をもっと続けてほしかった」。阿部文代さん(56)=石井町石井、主婦=は「日本の針路が問われる時は、必ず新聞やテレビに意見を求められていた。そんな人が徳島出身だったことを誇りに思っていた」と話した。

◆徳島が生んだ最高の政治家 寂聴さん語る

 徳島から出た最高の政治家だと思います。首相にならなかったのが不思議なくらい。残念です。実はお会いしたいと思いながらも長い間縁がなかったんです。でも私は後藤田さんの仕事をずっと見てきたし、後藤田さんも私の仕事を見ていてくれていました。今年一月二日放送の「時事放談」で初めてお会いしました。「女房も徳島高等女学校(現城東高校)出身で、あなたの後輩なんですよ」と、にこやかに話していただいた。そのときは”カミソリ“という印象はなくて、ユーモアがあって、とても穏やかでした。そして分かりやすい言葉でありながら、鋭く厳しく、今の政治、小泉首相の政治を批判していました。同じ大正生まれということもあるでしょうか、平和への考え方などでは、私とあまり変わらなかった。もう一回会って、ゆっくりお話をしたかったですね。(談)
http://www.topics.or.jp/News/news2005092204.html

「言葉優しかった」 県内経済界、後藤田氏惜しむ声相次ぐ

 元副総理の後藤田正晴さんが亡くなったとの知らせが届いた二十一日、徳島県内の経済界にも大きい衝撃が広がった。後藤田さんと親交のあった企業関係者からは「自分に厳しく、スタンスのぶれない人」「国のため、県のためにもっと活躍してほしかった」などと人柄を懐かしむとともに、死去を惜しむ声が相次いだ。

 「長い付き合いをさせていただいた。言葉にならなくても何を考えているのかが分かるくらい。謹厳実直といわれるけれど、実はくだけた話もできる人だった」。元県商工会議所連合会会頭の岡元大三さん(86)は振り返る。物事を慎重に見極めて判断する姿勢が印象的だったといい「分かりきっているような事柄でも『本当にそうか』と私たちに逆に尋ねてくる。決して安易な即答はしない。最初は戸惑いましたね」と話す。

 一九七四年の参院選出馬時から後援会の青年部長を務めていたというアイリス(美馬市)の佐々木充行社長(61)は「十数人単位の小集会を開くために、あちこち駆け回った。参院選では、まさか負けるとは考えもしなかったね」。

 アイリスの社長室には後藤田さん揮毫(きごう)の「鶴寿」が掲げられている。七八年に本社工場が落成した記念として贈られたという。「気さくな人柄。私にとってはいい兄貴分だったと思っています」としみじみと語った。

 日本フネン(吉野川市)の久米徳男社長(66)は、先代社長の故・布川隆美氏と一緒に後藤田さんと何度か会ったといい「近寄りがたい威厳を保ちながらも言葉が優しかったことが印象に残っています」。

 徳島銀行の柿内愼市頭取は、二〇〇二年九月にあった故・小川信雄氏(元日亜化学工業会長)の合同告別式が後藤田さんと会った最後になったという。悲報に接して語録を読み返したといい「考え方が一貫し、筋が通っていることをあらためて感じた。人間的な魅力の大きい人だった」と振り返った。

 阿波銀行の古川武弘頭取は「地元徳島の発展のために多大な貢献をいただいた。高い見識に基づく発言は、日本の良識を代表する貴重なもの。誠に残念でならない」と冥福を祈った。
http://www.topics.or.jp/News/news2005092203.html

人柄愛された「カミソリ」 後藤田氏、挫折から“王国”築く

 もう一度、あの直言を聞きたかった−。「カミソリ」「ご意見番」「知恵袋」。十九日に死去した元副総理の後藤田正晴さんは数々の異名で呼ばれ、政界だけでなく、各界で大きな信頼を得た。一九七六(昭和五十一)年の衆院初当選から三十年。政界引退後の晩年も常に発言が注目され、期待された。「切れ味鋭い言葉に感服したことは数え切れない」「傑出の政治家だった」。突然の訃報(ふほう)に、徳島県内各方面では足跡を振り返りながらたたえる人たちが多かった。

 後藤田さんの政治家としての第一歩は挫折で始まった。七四年の参院選初出馬で苦杯。故三木武夫元首相、故田中角栄元首相両派の激戦は「三角代理戦争」「阿波戦争」と呼ばれ、その後も激しい勢力争いを展開した。

 「身近すぎて、思い出は切りがない」。当初から後藤田派として支えた原田弘也元県議(73)は時折声を詰まらせ、言葉をつなぐ。後藤田さんは参院選落選後、次の戦いを見据えて県内くまなく歩き続けたという。「阿波戦争は不幸な面もあったが、競う中で徳島から立派な政治家を送り出すことができた。中でも後藤田先生は傑出していた」

 政治手腕、人柄は対立していた三木派関係者からも評価を得ていた。阿川利量県議(75)は後藤田さんが中曽根内閣の官房長官時代に見せた危機管理能力に感銘を受けたとし「八六年の伊豆大島三原山の噴火時に船をチャーターし、一晩で全島民を避難させた。その鮮やかさは見事だった」。さらに「中曽根首相の靖国参拝をめぐって慎重論を唱え、首相もその直言に耳を傾けた。この姿も印象的だった」と付け加える。

 同じ時代に代議士だった元厚相の森下元晴さん(83)は、後藤田さんと旧制富岡中学(現富岡西高校)の先輩後輩。「きちんと筋を通して、威厳も感じさせた。首相になるチャンスもあったが、その座をつかもうとしなかった。権力欲がなく、人間としての哲学を持っていた」と思い起こす。

 中央政界での台頭に伴って県内で「後藤田王国」を着々と築き、多くの政治家を手塩にかけた。その一人で参院議員を二期務めた松浦孝治さん(67)は「各省庁も先生には一目置いていた。先生の力を借り、私たちも随分と仕事がしやすかった」と感謝の思いを語る。

 元代議士の岩浅嘉仁阿南市長(50)は九三年に新生党から衆院選に出馬し、後藤田さんとたもとを分かったが、小選挙区比例代表選挙となった九六年の衆院選直前に後藤田さんから聞いた言葉が心に残る。「『この制度は二大政党制を目指すものだが、定着に十年はかかる』と言われた。今、国政はその通りになっている。常に先を見据えていた」としみじみ話す。

 「私が市長に立候補したのも後藤田さんの助言があったから」。元徳島市長の三木俊治さん(73)は、市政運営でことあるごとに相談を持ちかけた。「意志の強い、よく勉強をする人。中東情勢を質問したことがあるが詳しすぎて、こちらから『もう分かりました』と言った。いろんな思い出がある」と懐かしむ。

 遅れていた道路整備や企業誘致など、徳島の発展にも力を注いだ後藤田さん。阿波銀行の住友俊一相談役(75)は金融、政治改革、県勢発展など、さまざまな分野で熱く意見を交わした日のことが忘れられない。「とにかくスケールの大きな人だった。先生がいるということで徳島には有形無形の恩恵があった。けど、先生はそれをひそかにやる。大言壮語しない人だった」と振り返った。

 一方、政官界ににらみをきかしたこわもてのイメージとは違い、地元の支持者には笑顔を絶やさず、気さくな一面も見せていた。

 国政初挑戦の時から後援会女性部の中心的存在として支援してきた吉野川市山川町の富浜須磨子さん(86)は「阿波戦争といわれたかつての激しい選挙戦では、他陣営から敵視されて苦しみもいっぱい味わったが、苦労とは思わなかった。先生を崇拝していたから」。まるで、つい最近の出来事のように次々と思い出が頭に浮かび「寂しくなります」。遠くを見つめる目は潤んでいた。
http://www.topics.or.jp/News/news2005092205.html

涙…深い悲しみ 後藤田氏弔問 徳島市内、遺影に手合わせ

 十九日に死去した後藤田正晴元副総理の弔問の受け付けが二十二日、徳島市東沖洲一の後藤田正純代議士の事務所でも始まった。郷土が生んだ偉大な政治家の業績をしのぶ県民や、人間味あふれる人柄を尊敬していた県内各地の支持者が次々と詰め掛け、献花台の向こうでやさしくほほ笑む遺影に手を合わせていた。

 午前十時に始まった弔問記帳の会場中央には、マスコミの取材に笑顔で応じる後藤田さんの遺影が置かれた。政界だけではなく、各界から大きな信頼を得て誰からも愛された後藤田さん。詰め掛けた人たちは、それぞれの思い出を胸に涙をふいたり嗚咽(おえつ)を漏らしたりし、白いカーネーションを手向けた。

 後藤田さんが政界に初挑戦した一九七四年の参院選での落選直後から秘書として苦楽を分かち合った北島孝二さん(65)=同市金沢一、会社会長。「相手の欠点を言わず、誰ともけんかをしない本当にいい人だった。衆院初当選の喜びが、ついこの間のことのように思える」と遺影を見詰め、ハンカチで目を押さえた。

 また、四十年近くの付き合いがあったという北公さん(79)=同市南昭和町四、会社役員=は「『徳島のためにできることなら何でもしてあげるよ』と話すくらい、本当に徳島が好きな人だった。お世話になりっぱなしだった」と懐かしんだ。

 県内の行政関係者も、木村正裕副知事、野村靖前阿南市長のほか、多くの人たちが訪れた。木村副知事は「徳島だけでなく、日本のために尽くした不世出の政治家。個人的にも父の代から世話になり、感謝の意を込めて訪れた」。野村前阿南市長は「先生の選挙のときに私の家から街宣に出たこともあり、思い出は尽きない」と声を詰まらせていた。

 後藤田正純事務所での弔問記帳は、二十五日を除く三十日まで(午前十時から午後四時)受け付けている。
http://www.topics.or.jp/News/news2005092209.html

後藤田正晴氏の弔問始まる 都内、首相や各界関係者続々

 後藤田正晴元副総理の死去に伴う弔問の受け付けが二十二日午前、東京都文京区の日中友好会館で始まり、小泉純一郎首相はじめ、故人ゆかりの各界関係者が続々と訪れている。

 小泉首相は、一般の受け付けが始まる午前十時前に訪れた。首相は遺影に向かって一礼して静かに合掌。国会議員を引退してからも内政、外交課題について提言してきた「政界のご意見番」をしのんだ。

 このほか、午前中には町村信孝外相、青木幹雄参院議員会長や中央省庁の事務次官ら政界・官界の要人らが数多く訪れた。徳島県関係では飯泉嘉門知事や金山良治東京県人会長らが訪れ、後藤田氏の遺影に花を手向けて冥福を祈った。

 遺族を代表して後藤田氏の長男の尚吾さん(53)夫妻が出席、午後には細田博之官房長官谷垣禎一財務相自民党武部勤幹事長らも弔問記帳することになっている。

 東京での弔問受け付けは三十日までで、時間は午前十時から午後四時。

◆「大きな柱失った」 県関係者

 白い花に包まれた遺影と肖像が飾られた日中友好会館では、徳島県関係者も続々と弔問に訪れ、長男の尚吾さん夫妻とあいさつを交わした。

 東京徳島県人会の金山良治会長(西松建設相談役)は「郷里の大先輩であり、われわれにとって大きな柱を失った。残念至極です。日本の国にとっても大きな損失です。悲しむばかりではなく、後藤田先生のご遺志を鏡としたい」と話した。

 全国知事会に出席するため上京していた飯泉嘉門知事は「偉大な方を失ったことをあらためて実感している。国を代表する先見性に富んだ政治家であり、県のためにも愛情を込めて指導していただいた」と冥福を祈った。

 後藤田さんが官房長官時代に秘書官を務めた世界平和研究所副会長の佐藤謙さんは「六月にお会いしたときは大変お元気だった。情と理の考えを教わった」と白菊をたむけた。

 新聞報道で死去を知って駆けつけたという西川政善前小松島市長は「郷土の大政治家として尊敬していた。バランス感覚に秀でた、切れ味の鋭い、余人に替え難い人を亡くして残念だ」と話した。
http://www.topics.or.jp/News/news2005092210.html